大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大分地方裁判所 昭和57年(モ)758号 判決 1984年4月25日

当事者の表示

別紙「当事者目録」記載のとおり。

主文

一  債権者らと債務者間の大分地方裁判所昭和五七年(ヨ)第一〇三号仮処分申請事件について、同裁判所が同年七月一三日にした仮処分決定はこれを認可する。

二  訴訟費用は債務者の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  債権者ら

主文同旨

二  債務者

1  主文第一項記載の仮処分決定は、これを取り消す。

2  債権者らの本件仮処分申請をいずれも却下する。

3  訴訟費用は債権者らの負担とする。

第二当事者の主張

一  申請の理由

1  債務者(以下、単に会社という。)は、肩書地(略)に本社を置き、同所に本社工場、愛知県新城市に新城工場を有し、電線、ケーブルの製造販売等を営んでいる株式会社である。

債権者らは、いずれも会社に雇傭され、従業員として勤務してきた者で、昭和五六年五月に受けた基準内賃金は別紙「債権目録」記載のとおりであり、毎月一日から月末までの分をその月の二五日に支払われていた。

2  会社は、債権者らに対し、いずれも昭和五六年五月三一日到達の書面で、同年六月二日付をもって解雇の意思表示をした。

3  しかし、債権者らはいずれも右解雇の意思表示は無効であると争っている者である。

4  債権者らはいずれも会社からの賃金によって生計を立てている者であるから、本案判決の確定を待っていては回復しがたい損害を被ることが明らかである。

よって、本件仮処分決定は正当なのでその認可を求める。

二  申請の理由に対する認否

申請の理由1ないし3の事実は認め、同4は否認する。

三  抗弁

会社は、債権者らを整理解雇したものであるが、その理由は別紙一のとおりである。

四  抗弁に対する債権者らの主張

別紙二のとおりである。

五  再抗弁

本件解雇は、不当労働行為であり無効であるが、その理由は別紙三のとおりである。

第三疎明関係

疎明関係は、本件記録中の書証目録、証人等目録に記載のとおりであるからこれを引用する。

理由

第一申請の理由について

申請の理由1ないし3の事実は当事者間に争いがない。

第二本件解雇の経緯

一  会社の経営状態

(証拠略)によれば、以下の事実が一応認められる。

会社の経営は、昭和四八年度までは一応順調に推移し、同年度の経常損益も一三億七八〇〇万円の利益を計上したが、昭和四八年一〇月に発生したいわゆる第一次オイル・ショックとともに、電線業界全般が経営不振に陥り、会社も経常損益において損失を計上するようになった。経常損失の状況は次のとおりである。

昭和四九年度 △一四億五八〇〇万円

昭和五〇年度 △一九億九二〇〇万円

昭和五一年度 △一九億六六〇〇万円

昭和五二年度 △一四億九三〇〇万円

昭和五三年度 △四億六二〇〇万円

昭和五四年度 △一〇億二五〇〇万円

昭和五五年度 △一一億六七〇〇万円

また、これに伴う累積赤字は次のとおりである。

昭和四九年度 △九億円

昭和五〇年度 △一八億四九〇〇万円

昭和五一年度 △三七億九九〇〇万円

昭和五二年度 △五二億九二〇〇万円

昭和五三年度 △六三億三二〇〇万円

昭和五四年度 △七二億〇六〇〇万円

昭和五五年度 △八三億七三〇〇万円

そして、会社の発行済株式総数の四九・六四パーセント(本件解雇当時)を所有する三井金属鉱業株式会社(以下、三井金属という。)が赤字経営を続ける会社に対して資金援助を続け、昭和五五年度末ころにおいては、既に総額六八億円にのぼる貸付けを行っていたものの会社としては、更に三井金属から資金援助を受け続けなければ会社の存続もおぼつかなく、そのためにはまず自助努力として大幅な合理化を実施しなければならない状態にあった。

二  会社の経費節減努力

(証拠略)によれば、以下の事実が一応認められる。

会社は、まず人件費を抑制するために、従業員数の減少に努めてきた。その結果、従業員数は昭和四八年度の一〇一二名をピークに減少し始め、昭和五〇年度以降昭和五五年度上期までに約二〇〇名を減少させた。

また、会社は、人件費の抑制のほかに物品費、修繕費、交際費、広告宣伝費の切詰め、銅、地金、アルミ荒引線、塩ビ樹脂等の主要資材購入価格及び輸送費の節減、古ドラムの使用率の改善、外注価格、設備投資の抑制、役員報酬及び管理職の給与カット、従業員給与の賃上げ率の抑制等の措置を実施し、経営全般にわたり経費節減のため努力してきた。

三  再建計画の策定

(証拠略)によれば、以下の事実が一応認められる。

会社は、昭和五五年七月ころから新執行部体制を整え、経理部及び営業管理部が中心になって抜本的な会社再建案の策定に着手した。右検討に当っては、採算の悪い製品の生産及び販売は中止し、有利品のみを選別受注するという縮少均衡路線をとることとし、右路線に沿って電線部門で合計約三三〇名の人員削減をすれば、ほぼ収支が均衡すると見込んで、これをマスタープランとした。

しかし、マスタープランの人員削減数は、電線部門の従業員数約七四〇名の約四五パーセントに該当するので、現実には実行不可能であったため、実行可能な再建計画を作成するために、昭和五五年一一月初め、再建計画推進チームを発足させた。そして機構上の各部毎に部長が責任者となって具体的に実行可能な人員削減の素案を作成し、これに基づいて右再建計画推進チームにおいて別紙「人員計画表」どおりの人員削減案を策定した。これによると会社の人員削減数は二一二名であり、これと同時に関連会社の西電パイプ工業株式会社(以下、西電パイプという。)からも二〇名の人員削減を図ることになった。

会社は、同年一二月下旬、右人員削減案を基礎にした再建案を試案として三井金属に提示したが、この再建案ではなお約五億二〇〇〇万円の経常損失を残すことが障害となって、直ちに了承を得るには至らなかった。

そこで会社は、二一二名の人員削減数は動かさないで経常損失額を圧縮する方法を更に検討し、結局、経常損失を四億三一〇〇万円にまで減少できる見通しを立てるに至った。

一方、会社は、人員削減の実施方法についても検討し、希望退職、転籍募集を図るほか、退職勧奨、指名解雇に至ることも考え、昭和五六年一月、再建計画推進チームにおいて会社主張の六項目からなる人員削減の人選基準(抗弁二の10)を作成した。

以上のような経過を経て、会社の再建案は、同年二月一九日開催の三井金属の常務会で了承されるに至り、会社は右再建案を実施する運びとなった。

四  再建案の提案から希望退職募集まで

(証拠略)によれば、以下の事実が一応認められる。

会社は、昭和五六年三月一二日西日本電線労働組合(以下、労組という。)及び西日本電線社員労働組合(以下、社組という。)に対し前記再建案を提示し、二一二名の人員削減を図るため、最終期限を四月一五日とした協議を申し入れた。その後、労組及び社組との間に個別の団体交渉をもち、労組とは四月一五日までに七回の団体交渉を重ね、希望退職者、転籍者の募集の方向で協議がなされた。

そして、四月一六日、労組から会社に対し希望退職者の募集を一回に限って受け入れるとの申出があり、社組も希望退職者の募集にはあえて反対しない意向であったので、同月二一日から同月二七日まで、会社は、労組及び社組との間で希望退職募集に関する具体的協議を続け、希望退職者には会社都合退職金にその七割相当分を加算し、更に年令に応じ二か月から九か月分の基準賃金相当額を加算することとし、同月二九日から五月八日までの間、希望退職を募集した。その結果、応募者は七二名であった。

五  退職勧奨の実施まで

(証拠略)によれば、以下の事実が一応認められる。

会社は、希望退職募集の結果が再建案の予定する人員削減数に程遠かったので、前記人選基準に基づいて退職勧奨を実施することとし、五月一四日午前、社組の意向を打診した。また、同日午後三時から労組と団体交渉をもったが、翌一五日午前一時ころ交渉は決裂に至った。

ところが、同日朝、労組が分裂し、労組の前委員長栗原宏を委員長とする新組合西日本電線従業員組合(以下、従組という。)の組合結成届が会社に提出され、同月一八日、従組と社組が連合し西日本電線労働組合連合会(以下、連合という。)を結成したので、会社は右連合との団体交渉をもち、人選基準を示してその趣旨説明を行い、会社再建のための退職勧奨の実施を申し入れたところ、連合は同月二一日退職勧奨を受け入れる旨回答した。これに対し、労組は依然として退職勧奨の実施に反対していた。そこで、会社は、人選基準を解雇基準として指名解雇に踏み切るのもやむを得ないとの判断に傾き、同月二六日、労組、連合の双方に対し指名解雇を実施する旨申し入れた。

ところが、翌二七日、労組の支援団体である「共闘会議」から申入れがあり、大分県労評の山亀議長、佐藤事務局長らと会社の大須賀社長、土井総務部長との間でトップ会談がもたれ、席上、労組は退職勧奨を受け入れ、会社は指名解雇を取り止める旨の確認書が取り交された。

会社は、トップ会談の結論を受けて、労組及び連合の各了解を得たうえ、同日の夜勤者からを対象に同月二九日午後四時まで人選基準に基づき退職勧奨を実施したところ、人選基準外の自発退職者一二名を含む九二名が退職するに至った。

六  本件指名解雇

(証拠略)によれば、以下の事実が一応認められる。

退職勧奨を実施した結果が上記のとおりであり減員目標の二三二名に対し、昭和五六年五月二九日の退職勧奨募集締切日時点における退職者総数は一六四名に止まり、なお六八名の減員が未達成であったので会社は人選基準に基づいて三〇名の指名解雇を実施することとした。

右三〇名については、退職勧奨対象者のうち、退職勧奨に応じなかった三七名の中から人選することとしたが、退職勧奨時、対象者以外に一二名の希望退職者が出ており、このうち七名が生産現場の直接員であって、人員計画上この補充が必要であったので、各職場ごとの事情を勘案して、人選基準第四項該当者の中から七名を除外し、その余の三〇名を指名解雇の対象者とした。

かくして、人員問題の五月内決着が絶対に必要であると考えた会社は、退職勧奨募集締切日の翌三〇日山口県下関市所在の郵便局から六月二日付指名解雇通知書を右三〇名宛に発送した。

なお、会社は、「共闘会議」及び労組の要請を受け入れ、右三〇名のうち一五名については、六月九日付をもって指名解雇を撤回し、勧奨退職者に進じて取り扱うことにした。

第三当裁判所の判断

一  本件解雇は、会社がその経営の苦況を克服するため人員削減を必要とするために実施されたいわゆる整理解雇であるところ、整理解雇は、企業の経営苦況克服という一方的理由のために、労働者側が全く責むべき事情なしに企業から放逐され、生活の糧を得るべき従業員としての地位を失わしめるものであるから、これが有効とされるためには、信義則上次のような要件が必要であると解される。

すなわち、第一には、企業が客観的にみて経営危機に陥っていて、人員削減をしなければその存続が危ぶまれる状態にあること、第二には、出向、配転や希望退職者の募集等他の方法を講じて、整理解雇回避措置が尽くされていること、第三には、労働組合等労働者側に対し、客観的な事態の説明がなされ、人員削減の時期、規模、方法等について十分に協議がなされたこと、第四には、被解雇者の人選基準が合理的であって、具体的な適用も公平になされたこと、以上のように解される。

したがって、これらの要件をみたさずに整理解雇がなされた場合には、解雇権の濫用としてこれを無効と解すべきである。

二  そこでまず、整理解雇の第一の要件の存否につき検討する。

前記第二の一、二で認定の事実によれば、会社は、昭和四九年度以降経営危機に陥り、経営改善の努力はしたものの、本件整理解雇時には多額の累積赤字をかかえるに至り、そのまま推移すれば会社の存続も危ぶまれる状態にあって、人員削減等の方法により抜本的な経営合理化の必要が生じていたものと一応認められる。

そこで、会社の再建案の内容をみるに、前記第二の三で認定の事実によれば、再建案は、経営規模を縮少する方向で二一二名(西電パイプから別に二〇名)の人員を削減し、これを実行したことを前提に他の諸経費の節減を図れば、再建年度において経常損失を四億三一〇〇万円に抑えることができるというものであり、この数字の根拠について、会社の主張(抗弁二の7、8)の要旨は次のとおりである。すなわち、会社の昭和五五年度下期の実績見込みを現状として、再建年度の「実績見込み」を算出すると、売上高は二二七億九八〇〇万円、経常損失は一二億七六〇〇万円となる。そこで、縮少路線をとり売上高を一八五億四一〇〇万円に抑えれば、売上高の減少は当然に材料費の減少を伴うので、売上減に伴う粗利益減は八億九二〇〇万円ですみ、収支均衡のためには、これに右経常損失一二億七六〇〇万円を加えた二一億六八〇〇万円の経費節減を図らねばならないところ、一人当りの人件費を年間三六〇万円とすれば二一二名の減員で七億六三二〇万円、人件費を除く節減額は多く見込んで九億七四〇〇万円であるから、二一二名を削減しても、なお四億三一〇〇万円程度の経常損失が生じる、というのである。

債権者らは、会社主張の経常損失見込み一二億七六〇〇万円は昭和五五年度の実績見込みのことであって、同年度の実績(経常損失一一億六七〇〇万円)に比べて損失を過大に見積もることにより、会社は赤字を水増しして整理解雇の有効性を偽装していると主張するけれども、もしそうであれば、再建案の目標は再建年度における損失の発生を回避することにある筈であるのに、会社は昭和五五年度という過去の単年度の経常損失を解消するために再建案を策定したことになってしまうのであって、そのような理屈は到底理解できないものである。

そして、会社の主張する数字は、あくまで見込み上のものではあったが、成立に争いのない疎乙第四七号証(昭和五六年度事業報告書)によれば、再建初年度にあたる昭和五六年度(昭和五六年四月一日から昭和五七年三月三一日まで)の経常損失は再建案の目標に近い約六億四八〇〇万円であったことが認められるから、この一事からも、会社の見込みは一応合理的な根拠に基づいたものであったと評価することができる。

してみると、再建案は、それを完全に実施しても、再建年度においてなお四億三一〇〇万円もの経常損失を残すものであることに鑑みれば会社は経営の危機に陥っていて人員削減を含む厳しい再建対策を講ずる必要に迫られていた事実は一応認めることができる。

しかし、右事実から直ちに「整理解雇」が許容されることを意味せず、以下に検討する、解雇回避措置が尽くされていない場合には、なお「整理解雇の必要性」を欠くことになる。

三  そこで、会社のなした整理解雇回避の措置と労働組合との協議について検討する。

1  前記第二の四、五で認定のとおり、会社は、再建案による人員削減の実施に当たり、労組、社組の双方と団体交渉を重ね、その結果希望退職者の募集を一回実施し、その後組合分裂後の労組及び連合ともそれぞれ団体交渉をもち、人選基準に基づく退職勧奨を一回実施しているので、この限りにおいて、会社が、本件解雇に至るまで、整理解雇回避のための具体的措置をとり、また、労働組合とも協議を尽くすべく努力したことは一応評価できないものではない。

2  しかし、前認定のとおり、会社が人選基準に基づく退職勧奨を実施したのは昭和五六年五月二七日から同月二九日までであったが、勧奨に応じて八〇名が退職することを承諾し、これに右期間中の自発退職者一二名と、先の希望退職者七二名を加えると退職者は総数一六四名にのぼり、再建案の完全実施に向けて一応の前進をみたものと評価し得るのに、本件指名解雇は、会社が、右成果を何ら顧慮することなく、退職勧奨を打ち切った翌三〇日、いわば抜き打ち的に強行したものといわざるをえない。会社は、退職勧奨の一定の成果を踏まえて、再建案の完全実施のために今後いかなる方法をとるべきか、指名解雇もやむを得ないとすればいついかなる基準に基づいて実施すべきかについて、労組側と全く協議をせず、また、退職勧奨実施後いつの時点で指名解雇を実施するのかについての協議も事前に全くなされないまま(以上の協議をしたことを疎明するものはない。)本件解雇は実行されたものである。

退職勧奨を実施した後、更に指名解雇を実行する会社としては、右協議をも尽すとともに、最後通告に相当する意思を表示し、なお労働組合側の対応に最終的な決断を求めるべき道を残しておくべきであったのである。

3  また、再建案に基づく削減予定人員に対して、退職勧奨実施後の未達成人員は西電パイプを含め六八名となるところ、本件指名解雇は未達成人員全部の削減を図ったものではなく、そのうちの三〇名についてなされたものである。そこで、残る三八名の人員削減を会社がどのように実施したかをみるに、会社の主張によれば、その実施状況は抗弁六記載のとおりである。しかし、会社の右主張によっても減員の実施は誠に遅々としており、加えて、右三八名の中には、昭和五七年の退職、転籍者四名、本件指名解雇後の労組員、従組員の任意退職者九名、同じく本件指名解雇後の支店、営業所における退職勧奨応募者八名を含んでいるが、支店、営業所において応じるか応じないか不明の退職勧奨を継続しているならば(右八名はいずれも非組合員層であるとはいえ)、なぜ退職勧奨をもう少し全社的に継続しなかったのか疑問が残る。

以上によれば、残る三八名の人員削減が、再建案に則って実施されたものとは到底いえず、具体的な計画もないまま漸次目標とする員数に到達していったものと解さざるをえない。

そうであるならば、本件指名解雇の対象者であった三〇名についても、なお右三八名の減員と歩を一にして、その他の従業員も含めて退職勧奨を実施する等他の人員削減の方法をとることにより、指名解雇を回避する措置がとりえたのではないかとの疑問を払拭することができない。

4  前記のとおり、解雇は労働者の生活にかかわる重大事であり、ましてや整理解雇が専ら企業側の事情で労働者を企業から放逐するものであることに鑑みれば、たとえ退職勧奨を実施した結果が、会社の期待を十分にみたすものではなかったにしても、希望退職、勧奨退職等合意に基づく任意の退職と、使用者の一方的な整理解雇とはその本質を異にするものであるから、会社は、整理解雇の実施について労組と誠意をもって協議を尽すと共に、整理解雇回避のため事前に相当の手段を講じるべき信義則上の義務があるというべきであって、右義務が履行されていない場合には整理解雇の有効要件を欠くことになる。

しかるに、会社は、親会社ともいうべき三井金属の意向を酌んで人員問題の五月内決着を急ぐのあまり、整理解雇の実施については労組と何らの協議もすることなく、これを強行したものであるのみならず、残り三八名の減員の実施状況をみても、会社が昭和五六年五月三〇日の時点であえて三〇名の指名解雇に踏み切らなくとも、更に労組等との協議を尽し、再建案に基づく人員削減の完全実施に向けて、労組等の理解と協力を得ながら、事態を打開する余地はなお十分に残されていたということができるから、会社が本件指名解雇を回避するために必要にして十分な事前の措置を講じたとは必らずしもいえず、いずれの点からみても、会社が本件指名解雇前に前記信義則上の義務を履行したとはいい難いから、その余の点について判断するまでもなく、本件整理解雇を有効とすることはできず、結局、会社の抗弁は理由がないことに帰する。

四  更に、会社の「人員計画表」について、検討を加える。

1  前記のとおり、再建案における西電パイプの人員削減数は二〇名であり、会社の別紙「人員計画表」によれば昭和五六年二月末時点の西電パイプの現在員は五九名、会社の答弁書別紙(一)添付の人員表によれば昭和五六年一一月時点の西電パイプの現在員は四六名(削減数一三名)というのであるから、会社の主張によれば、西電パイプの未達成人員は七名である。したがって、再建案における会社の人員削減数二一二名のうち未達成人員は、西電パイプを含む総人員削減数二三二名から右七名と前記退職者総数一六四名を控除した六一名となる筈である。そして、会社の抗弁六によれば、本件指名解雇後に会社から退職した者は三八名というのであるから、会社が仮に指名解雇に踏み切らざるを得ないとしても、右計数によれば、その員数はせいぜい二三名で必要かつ十分であったのではないかとの疑問が残る。

2  別紙「人員計画表」によれば、再建案における西電パイプを含めた管理職の人員削減数は二二名、その他の職層二一〇名となっている。会社は、昭和五七年七月一日付準備書面(三)中の三等において、退職勧奨を打ち切った時点で管理職は五名退職していると述べているので、前記退職者総数一六四名から右五名を控除すると、退職勧奨終了時点において管理職を除くその他の職層の退職者は一五九名となり、この職層の未達成人員は前記二一〇名から右一五九名を控除した五一名となる筈である。そして、会社の抗弁六によれば、本件指名解雇後に会社から退職した者のうち管理職を除くその他の職層の退職者は三〇名というのであるから、会社が仮に指名解雇に踏み切らざるを得ないとしても、右計算によれば、その員数はせいぜい二一名で必要かつ十分であったのではないかとの疑問が残る。

3  更に、会社の非管理職層に限定して再建案の未達成人員数を算出すると、西電パイプを含めた総人員削減数二三二名から前記の退職者総数一六四名を控除し、これから前記西電パイプの未達成人員七名と管理職の未達成人員一七名を控除すれば、残りは四四名となり、更に、これから本件指名解雇後に退職した非管理職層の前記三〇名を控除すれば、残りは一四名となる。右計数によれば、結局、指名解雇の対象とされるべき会社の非管理職層の員数はせいぜい一四名で必要かつ十分であったのではないかとの疑問が残る。

4  再建案における人員削減数は、会社の各職場から現実に人員削減可能な数として、別紙「人員計画表」のとおり二一二名、西電パイプを含めて二三二名の数字がでてきた筈のものであるにもかかわらず、右1ないし3で検討した結果によれば右「人員計画表」は、その運用において、算出の根拠、基盤が忘却されてしまい、結局、本件指名解雇は、「人員計画表」で予定された人員削減数の数字だけがひとり歩きした結果、人員削減の実績を挙げることを焦るの余り、全体との均衡を欠いたまま強行された疑いの濃いものとなっているのである。

第四結論

一  以上の判断が示すとおり、本件整理解雇は、その有効要件である労働組合との協議が最終段階において尽されたものとはいいがたいこと、解雇回避措置も尽くされたとはいいがたいことから、具体的な債権者らを含む三〇名の「解雇の必要性」が欠けることになり、解雇基準や不当労働行為等その余の点を判断するまでもなく、結局抗弁は理由がないことに帰する。

二  よって、会社が債権者らに対してなした本件解雇の意思表示は解雇権の濫用としてその効力を生じないものというべきであり、そうであれば、債権者らと会社との間には現在なお雇傭関係が存続していることになる。したがって、債権者らは、会社との間において各種社会保険の被保険者の地位にあり本件仮処分申請時である昭和五七年四月九日以降毎月二五日限り別紙「債権目録」記載のとおりの基準内賃金を受ける権利を有する。

三  (証拠略)によれば、債権者らはいずれも会社から支払われる賃金で生計を立てている者であるから、本件解雇によってこれが支払われないことによって生活に困窮を来たし、著しい損害を被るおそれがあると一応認められるので本案判決言渡に至るまで前記二の範囲内で保全の必要性を認める。

四  よって、債権者らの本件仮処分申請は右の限度で認容すべく、これと結論を同じくする主文第一項記載の仮処分決定はこれを認可することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 三村健治 裁判官 白井博文 裁判官塚本伊平は、転任につき署名捺印することができない。裁判長裁判官 三村健治)

別紙

当事者目録

債権者 衛藤政治

債権者 加藤常雄

債権者 清水益男

債権者 阿南清児

債権者 安部繁明

債権者 井戸徹也

債権者 渡辺敏和

債権者 石川秀

債権者 小松敏範

債権者 木崎昭夫

債権者 井上長喜

債権者 井美好順

債権者 広瀬美恵子

債権者 宮本小百合

右債権者ら訴訟代理人弁護士 吉田孝美

同 岡村正淳

同 西田収

同 柴田圭一

同 安東正美

同 古田邦夫

債務者 西日本電線株式会社

右代表者代表取締役 大須賀正已

右訴訟代理人弁護士 竹内桃太郎

同 石川常昌

同 山西克彦

同 岩井國立

同 岩崎哲朗

債権目録

<省略>

(別紙一)

抗弁(解雇理由)

会社が、債権者らを解雇したのは、回避措置を尽くしたが、なお整理解雇の経済的必要性があったためで、債権者ら及び労働組合等に説明、協議等を尽くしたうえ、解雇基準に該当する債権者らを解雇したものであって、解雇は正当である。

一 整理解雇の経済的必要性

1 (会社の概要)

会社は、電線・ケーブルの製造販売等を目的とする資本金一九億二〇〇〇万円の株式会社であり、西日本地域における唯一の電線製造一貫メーカーで、通信ケーブル、架橋ポリエチレンケーブル、シースケーブル、プラスチック線、ゴム線、裸線等の銅電線およびアルミ電線の外、分岐ケーブル、ゴム成形品等の特殊加工品(特品)等を製造、販売しており、本件解雇当時、三井金属が会社の発行済株式の四九・六四パーセントを所有していた。

会社は、大分市に本社をおき、工場は大分市に本社工場、愛知県新城市に新城工場を有し、支店としては東京のほか四か所、営業所としては広島営業所のほか四か所を置き、昭和五六年二月末現在の従業員数は七九二名(後記西電パイプの五九名を含み、他社への出向者、労働組合専従者を除く)であった。なお、関係会社として、地域冷暖房用埋設パイプ、海底送水用パイプなど各種の特殊パイプ部門を分離独立させ、昭和五四年西電パイプ工業株式会社(資本金三億円)を設立した。

2 (昭和四八年度までの会社の経営状態)

会社の経営は昭和四八年度までは一応順調に推移していたということができ、殊に昭和四八年度においては、電線業界は年度頭初より旺盛な需要が生じ、この年度の売上げは販売数量で前年比銅線が一八パーセント増、アルミ線が三九パーセント増となり、売上金額は二八八億円で、前年度比六四パーセント増と著しく伸長し、経常損益において一三億七八〇〇万円の利益を計上し、過去二年間無配であった株主への配当についても一〇パーセントの配当を行うことができた。

3 (第一次ナイルショック)

しかし、昭和四八年一〇月に発生した第一次オイル・ショックとともにわが国経済はそれまでの高度成長時代に終りを告げ、以後現在に至るまでの低成長時代といわれる一般的不況の時代に入った。

電線業界においても、その過当競争的体質からいわゆる構造不況の様相を呈し、一部の企業を除いて、業界全般が経営不振に陥り、人員削減を含む減量経営の動きが広まった。

4 (昭和四九年度からの赤字経営)

右のような電線業界全般の構造不況的状況から、会社においてもその例外でありえず、前述のように、昭和四八年度に経常利益を計上したのを最後に、翌四九年以降、売上げは落ち込み、経常損益において損失を計上するようになり、年次赤字が累積する赤字経営に陥った。

経常損失の状況は次の通りである。

<省略>

人員計画表

<省略>

昭和五五年度 △一一億六七〇〇万円

5 (本件再建案実施直前の経営実態)

このような状況から、昭和四九年度には価格変動準備金(一億七二〇〇万円)、銅価低落損失引当金(三億円)を取り崩し、昭和五〇年度には社宅、アパート、寮等の不動産を売却し、これによる売却益六億円、税金還付金四億四〇〇〇万円をもって損失の補填に当て、更に三井金属の支援により半額増資(六億四〇〇〇万円)を行う等したが、翌五一年度以降は損失を補填するための引当金、その他特別利益の財源もなくなり、その他の方策も尽きたため、損失全額を欠損として計上せざるを得なくなり、債務超過という破産同然の状態に陥り、累積赤字(未処理損失)も次のように次第に膨大なものになって行った。

<省略>

このように、本件再建案実施直前の昭和五五年度においては、年間の経常損失約一二億円(月間損失約一億円)、累積損失約八四億円という惨たんたる有様となっていたのである。

さらに、昭和五五年度末頃においては、会社の三井金属からの借入金総額は約六八億円という巨額なものになるとともに、毎月新たに約二億五〇〇〇万円の資金援助を受けなければならず、従って右借入金総額がどんどんふくらんで行く状態にあった。累積赤字約八四億円の上に毎月これが約一億円ずつ増加して行くという状態にある会社自体にとって、このような三井金属からの資金援助は会社の存続のために絶対必要な条件となっており、三井金属からの右資金援助がなくなればそれは即座に倒産することを意味したが、逆に三井金属にとっては、右のような莫大な資金援助を長期間にわたって継続することは到底不可能であって、もしこれを継続するとすれば三井金属の存立自体が危殆に瀕することになり、もはや右のような資金援助を継続することによって会社の経営を支援することは不可能な状態になっていた。

二 会社の倒産回避施策等

1 (新規採用の中止)

会社は、男子従業員については(女子従業員については、支店、営業所の女子事務員、パートタイマー等若干名を採用している。)、昭和五〇年度の六人の新規採用を最後に、翌五一年度以降新規採用を中止し、定年、自己都合退職による自然減に努めて来た。

各期末における従業員数をみると、昭和四八年度の一、〇一二名をピークに次第に減って来ており、昭和五〇年度以降昭和五五年度上期までに約二〇〇名減少している。この二〇〇名中には昭和五三年度の再建計画による希望退職者等一〇四名が含まれている。

2 (経費節減)

会社は、昭和五三年度の再建計画においては人員削減を行った外、各種の経費節減策を実施したが、その後においても、次のような経費節減努力を行って来た。

(一) 昭和五四年度以降、物品費、修繕費、交際費、広告宣伝費等の諸経費をぎりぎりにまで切り詰めた。

(二) 昭和五三年度以降、銅地金、アルミ荒引線、塩ビ樹脂等の主要資材購入価格および輸送費の節減に努めた。

殊に三井金属による銅地金の価格割引額は、昭和五五年度だけについてみても年間約一億円にのぼっている。

(三) 昭和五三年度以降、古ドラムの使用率を高めて、経費の節減を図った。

(四) 同じく外注価格の抑制を図った。

(五) 昭和五一年度以降、殆んど設備投資を行っておらず、設備の更新ができないで老朽化が進んで行くという状況となった。

(六) 三井金属からは、これまでに述べたような資金援助を受けた外、昭和五五年度に約四〇〇万円の保証料免除、昭和五四年以降二八億八五〇〇万円相当の借入金に対する金利負担の免除、借入金、その他貸借勘定に対する特別利率の適用を受ける等した。

3 (報酬又は給与の節減)

昭和五〇年以降、役員の報酬については五パーセントないし一五パーセントのカットが続いていたが、昭和五三年からは管理職の給与についてもカットが行われるに至った。

又、従業員の給与については、昭和五三年度及び同五五年度には、賃上げ及び一時金とも世間一般の水準と比較して低い水準にとどまった。

右の通りであったから、本件再建案実施の頃までには、役員、管理職の給与については、既に長期間にわたって、増額又は賃上げ等が行われなかったばかりではなく、いわゆる報酬カット、給与カットによって世間一般の報酬又は給与の水準と比較してかなり低いものとなっていたため、それ以上右カットを継続することが困難な状態となっていた。

又、従業員の給与についても、会社が赤字経営になって以来、毎年の賃上げ及び一時金とも一般に世間水準に比較して高くはなかった上に、昭和五三年度及び同五五年度には右のようにはっきりと世間水準に比較して低くなったから、全体として給与水準そのものが低い限界に近くなって来ていたのであって、本件再建案策定の過程においても、経費節減の一環として、給与カットを行うべきであるとの提案がなされ、社内において相当の議論がなされたが、結局、モラールの低下を招く等経費節減効果よりは、むしろ会社再建の障害となる効果の方が大きく、事実上これを行うことが困難であると解されたので、本件再建案の一環としては給与カットは行わなかった。

4 (再建計画案―マスタープランーの策定)

会社においては、昭和五五年七月頃から、新執行部体制を整え、経理部及び営業管理部が中心になって、抜本的な再建計画の策定に着手した。

右策定作業においては、まず、会社のこれまでの生産及び販売の状況と今後の販売計画等を調査、分析し、その結果を基礎にして、どのようにすれば収支を均衡させることができるかを検討した。

右検討に当っては、前述のように、拡販路線をとることはできない情勢にあったから、採算の悪い製品の生産、販売は中止して、有利品のみを選別受注するという縮少均衡路線をとることとし、会社がそれまで生産、販売して来た全製品について、限界利益率を基準にして、その生産、販売の中止又は存続をきめ、これに基づいて数通りの案を作成して、各案における売上金額、生産、販売の縮少に伴う経費の圧縮額等を算出して、どのようにすれば収支の均衡が可能になるかを検討した。

その結果、従来の生産、販売体制における余剰人員及び右のような生産、販売の縮少により生ずる余剰人員を含めて電線部門で合計約三三〇名の人員を削減すれば、ほぼ収支の均衡が可能になるという結論が得られた。

しかしながら、右のような約三三〇名にのぼる人員削減数は当時の電線部門の従業員数約七四〇名の約四五パーセントに当り、どのような方法をとるにせよ、実行が非常に困難であると解されたので、右三三〇名案をマスタープランとして、更に実行可能な具体的な計画案を作成することとなった。

5 (二三二名人員削減案の策定)

会社は、マスタープランに基づき実行可能な具体的再建計画を作成するため、昭和五五年一一月初め、次長クラス三名、課長クラス一名、課長代理二名、係長クラス一名の合計七名と総務部次長等事務局二名から構成される再建案策定のための再建計画推進チームを編成、発足させた。

再建計画推進チームにおいて討議・検討された大きな問題は<1>縮少均衡と、<2>人員問題(人員削減)の二つである。

<1>の縮少均衡については、昭和五五年一一月中は、ほぼこの問題について討議、検討され、同月末頃までには、ほぼマスタープランのような縮少均衡路線をとることで意見の一致を見、その後翌五六年一月頃までに実行案についての結論が出た。

<2>の人員問題については、昭和五五年一二月初め頃から討議、検討されたが、右縮少均衡案によれば約三三〇名の人員削減が必要になるところ、このような大幅な人員削減を行うことはやはり無理であるとの認識から、一旦右縮少均衡案から離れて、三三〇名にこだわらずに、実行可能な人員削減案を別個に検討することとした。

このため、各職場の実態に即して、どういう理由で人員が必要であり、どういう理由で減員できるか一人ひとり検討し、必要人員の積上げ計算を行って、減員数を算出することとし、まず、生産部、技術管理部、特品製造部、総務部、経理部等の各部毎に部長が責任者となって、人員削減の素案を作成し、各部の責任者が、再建計画推進チームの会合に出席して、この素案に基づいて一人ひとり減員の理由等について説明し、その後更に再建計画推進チームにおいて検討を加えて、会社全体の人員計画を策定するのと同時に、実行可能な人員削減数として二一二名(西電パイプの二〇名を加えて、二三二名。以下同じ。)という減員数を算出した。

6 (再建案の修正)

会社は、昭和五五年一二月下旬、この二一二名の減員を基礎とした再建案を作成して、試案として三井金属に指示した。しかし、この試案は、収支計算としては約五億二〇〇〇万円の経常損失になるというものであったため、三井金属としては、これに対して非常に不満であるとの意を表明し、減価償却費とほぼ同じ金額の経常損失の再建案であって、資金収支の均衡という形をとっているものの、状況によってはいつまた資金面で赤字になるかわからず、再建案ということはできない、これでは会社を潰した方がよいという反応であった。

そこで、会社としては、二一二名の人員削減数は動かさないで、右の約五億二〇〇〇万円という経常損失額をなんとか圧縮することとし、工程歩留りの向上、製品仕様の見直し等による増益効果をより大きく見ることとし、又公定歩合の再引下げがあることとしてこれによる金利負担の軽減を見込む等して、経常損失額を四億三一〇〇万円にまで縮少するということで右再建案の修正を試みた。

7 (再建案の内容)

これを損益計画的観点から会社の策定した再建案の収支目標を示せば次のとおりである。

そして、以上を具体的に述べれば次のとおりである。

(一) 経費節減の具体的展開

(1) 再建計画による年間売上高の減少は、前記のとおり四二億五七〇〇万円であるが、売上高の減少は当然材料費の減少を伴うので、これを品種別に試算した結果、材料費の減少は三三億六五〇〇万円と見積られ、売上高の減少との差額は八億九二〇〇万円と見込まれた(材料費については、原料銅が三井金属から特別の優遇措置で供給されていることなどから節減の余地は少なかったが、製品歩留りの向上や仕様の見直しなどによる節減を見込んだ。)。この八億九二〇〇万円は、売上減に伴う粗利益減であるから、これに見合う原価が下らなければならず、計画段階で収支均衡を考えるとすれば、これに経常損失一二億七六〇〇万円を加えた二一億六八〇〇万円の経費節減がはかられなければならない。

<省略>

(2) そこで、経費節減の内容を具体的に検討したところ、次のごとく見込まれた。

まず、人件費を除く当時の製造加工費を管理可能費と管理不能費に分ければ次のとおりであった。

(ア) 管理可能費

<省略>

(イ) 管理不能費

<省略>

これら人件費を除く当時の製造加工費について費目毎に節減金額を算出したところ、売上高の減一八・七パーセントにほぼ比例する一八・四パーセント三億四四〇〇万円の節減が可能と考えられた。

次に人件費を除く販売管理費を検討したが、当時の販売管理費は次のとおりであった。

<省略>

そこで費目毎に節減策を検討の結果、販売直接費については荷造運送費、倉庫費用等を中心に四億八六〇〇万円、販売間接費については営業活動縮少などによる経費減五一〇〇万円、一般管理費については、事務所統合による経費減など一二〇〇万円、合計五億四九〇〇万円(二六・五パーセント減)が可能と考えられた。

この他、金利についても、金利改訂による負担額が八一〇〇万円見込まれたので、人件費を除く節減額の合計は九億七四〇〇万円となった。

(3) 従って、収支均衡を行なおうとすれば、前記二一億六八〇〇万円から右節減額九億七四〇〇万円を控除した一一億九四〇〇万円に見合う人件費の削減が必要であったわけであり、一人当り人件費を年間三六〇万円とすれば、この改善目標額では三三一名の減員が必要と算出された。

(4) なお、再建案の策定にあたり、一二億七六〇〇万円という経常損失の根拠について、会社は昭和五五年一〇月ないし一二月の三か月間の月当り経常損失は現実には一億三三〇〇万円であったが、昭和五六年度に見込まれる製品の販売価格の改定による収益の増加を根拠に月当り損失を一億〇六〇〇万円と修正した。

8 (再建案の目標)

再建案の本来の目標は、昭和五五年下期の実績見込みを現状として、損失発生額(一二億七六〇〇万円)を解消すべきものであるが、以上述べたとおり会社を取りまく諸環境及び再建案を実行するうえでの人員削減を実行可能な最少に止めたいとの配慮等から、再建年度の経常損失を右のごとく四億三一〇〇万円に止めることとしたのであるが、再建年度の支出には、うち減価償却費が五億一八〇〇万円含まれるため、八〇〇〇万円前後の設備投資を見込んでも資金収支が一応とれることとなる。かかる計画は償却不足による設備更新ができないこととなり、経営の健全性を損うものであるが、資金面での収支のみは一応とれる形となり、倒産の危機を取り敢えず回避することができるため、資金収支面での均衡を可及的速やかに達成することを目標としたのである。従って、この再建案はいわば最低限の一歩も譲ることのできない限界線を目標としたものといえる。

なお、右の「実績見込み」は、再建年度において再建案を実施しなかった場合の業績見込みを意味し、「昭和五五年下期の実績見込みを現状として」というのは、再建案を実施せず現状のまま推移すればという意味であり、「損失発生額(一二億七六〇〇万円)」というのが、再建案を実施しないで現状のまま推移した場合に見込まれる損失発生額であることはいうまでもない。

再建案の本来の目標は再建年度における損失の発生を回避することにあることはいうまでもなく、過去の累積損失全額を解消するというのであれば格別、昭和五五年度という過去の単年度の損失発生額だけを解消してみても、会社を再建できることにはならないのであるから、右記述を債権者らの主張するような「再建案の目標は、既に過去のものとなった昭和五五年度の業績見込み上の経常損失を解消することにある」という意味にとることはできない。

ところが、債権者らは、右「実績見込み」とは昭和五五年度の収支見込みのことであると勝手に誤解して、前述の昭和五五年度の経常損失一一億六七〇〇万円と右「実績見込み」の経常損失一二億七六〇〇万円とを比較し、その差額一億〇九〇〇万円をとらえて、会社は一億〇九〇〇万円の赤字を捏造したものであり、この捏造された赤字を理由に本件解雇を強行したと主張するが、このような主張にはなんの根拠もなく、又比較してもなんの意味もないものを比較しているものである。

9 (三井金属常務会における再建案の了承)

そして、昭和五六年二月一九日に開催された三井金属の常務会に右のような二一二名の人員削減、四億三一〇〇万円の経常損失という再建案を提出したところ、これが実行できない場合は会社を清算するということもありうるので、その具体的方法について検討を開始するという条件付きで了承されることとなった。

10 (減員の方法と人選基準)

(一) 減員の方法

会社は、再建案立案の過程において、減員方法を検討し、別紙「人員計画表」のとおり具体的人員計画をたてたが、でき得る限り本人の同意を得た希望退職募集を中心とした方法で実施を図ることとした。しかし、二三〇名余にのぼる大量の減員であり、勤務地を変えても働きたい希望を有する者には、できるだけ職場を確保する観点から、会社は三井金属と種々交渉した結果、約八〇名程度については、三井金属企業グループとして転籍者を受け入れるよう準備するとの了解を取り付け、これを募集方式で受け付けることとした。

しかしながら、希望退職、転籍募集によって計画人員に達しない場合には、切迫した経営事情からそれ程の時間的余裕は見込まれず、退職勧奨更には指名解雇に進まざるを得ないことも予想された。そこで会社は、右事態に備えるため、昭和五六年一月再建計画推進チームの中に分科会を設けて次のごとき六項目からなる人員削減の人選基準を作成した。

(二) 人選基準

(1) 「昭和六年四月一日以前に生れた者。但し、余人に代ることができない技能を有する者を除く。」

会社には、昭和五〇年度における六名の新規採用者の採用以後、男子従業員の採用を六年間も中止している特殊事情があり、高年齢者から減員を図ることとした。

(2) 「出勤状態の悪い者(昭和五三年度ないし同五五年度の三年間、各年度とも欠勤三日以上ある者)。」

(3) 「私傷病その他の事情で正常な勤務を期待できない者(残業・夜勤ができない者、軽作業にしかつけない者等)。」

(4) 「勤務成績・能力の劣る者。

ア 多能工でない者。

イ ペア作業・グループ作業のできない者。

ウ 作業能率の著しく劣る者。

エ 職場規律を乱した者。」

(5) 「品質上、安全上重大な過失を犯した者。」

以上第二項ないし第五項については、今回の再建案が、いわゆる少数精鋭主義により難関を突破せんとするものであるため、減員後の体制において戦力となる要員を確保せんとする趣旨である。

(6) 「会社で夫婦共に働いている者の賃金の低い者。」

言うまでもなく退職による影響が少しでも少ない者を対象とする趣旨である。

三 本件指名解雇に至る経緯

1 再建案の提案

昭和五六年三月一一日、会社は労組及び社組の執行部三役に対し、提案内容を内示のうえ、翌一二日開かれた両組合との団交(第一回団交)の席上、会社経営の現状、業績悪化の原因、三井金属の状況及び経営再建の基本方向について概説した「趣意書」を配布して昭和五六年二月末日現在七九二名(西電パイプを含む)を五六〇名体制とする旨の人員縮少に関する両組合の協力を正式に要請し、翌四月一五日を期限とした協議を持ちたい旨申し入れた。

これに対し、労組は断固反対の意思を表明し、社組もまた直ちには協力しがたい旨の意思を表明した。

2 第二回団交から第五回団交まで

労組との団交は、三月一二日から四月一五日までの間に七回にわたって行われ、この外共闘会議との間で一回の交渉が持たれた。なお、第五回団交は二日間、第六回団交は三日間、第七回団交は三役交渉を入れて三日間にわたって行われた。このうち第二回団交(三月一七日)から第五回団交(三月三一日、四月二日)までの間、労組の主張は「再建案は二三〇名減員という苛酷な内容であり、絶対に応じられない。これまで会社がどのような経営努力をしてきたか明らかにせよ。」というものであった。これを受けて会社は、従来の経営努力を詳細に説明するとともに、会社の現状を訴え、他のあらゆる努力を尽しても人員削減の非常措置が是非とも必要であり、今次再建案は会社再建の最低限の提案である旨を縷々説明し労組の理解を求めた。

しかし、労組は終始、断固反対の態度を変えようとしなかった。

3 第六回、第七回団交

(一) 四月七日から九日にかけて行われた第六回団交から労組の主張は次第に変化し、「会社の経営危機の現状と再建の必要性は理解できる。しかし、二三〇名の減員ということではなく、次善、三善の方策はないのか。」との質問が出るようになった。しかし、この間、地元紙を中心に再建交渉の模様がマスコミに大きく報道されており、また業界筋を通じ、会社倒産必至との情報が飛びかっていた。このような信用不安の状況から、会社が振り出した手形の割引を金融機関が拒否したり、手形での決済を取引先が拒否したりする事例が多発し、受注面の減少も目立つようになってきており、会社は一層切迫した状況に追い込まれてきていた。

そこで、会社は労組に対し、右のごとき状況を説明するとともに、「会社が提案した人員縮少は倒産を避けるための最低限の提案であり、次善、三善の策といえども、二三〇名の人員減を避けては自主再建の体制を整える案はできない。関係先の支援をうるためにも再建案に協力してもらいたい。」旨繰り返し要請した。

(二) 四月一三日から始まる第七回団交においても、労組の主張には変化が見られなかったが、会社は「四月一五日が協議期限となっているが、この労使交渉はマスコミはじめ世間の注目を集めており、いたずらな延期は許される状況ではない。双方の主張には開きはあるが詰めた話合いをしたい。」旨強く申し入れた。

(三) 右会社申入れを受けて、翌一四日、一五日の両日前後七回にわたって三役交渉(会社側、大須賀社長、戸村専務、土井総務部長、労組側、栗原委員長、石倉副委員長、渡辺書記長)が行われた。この三役交渉は両者の意見が対立し、しばしば激論が繰り返された。

(四) 翌一六日の夕方、労組より「共闘会議で論議の結果、会社提案の希望退職を一回限りということで認めることになった。大会など内部手続もあるので、会社が進めようとしている募集実施を保留してもらいたい。」旨申入れがあったので会社はこれを了解する旨回答した。その後労組は四月二一日に臨時大会を開催、希望退職募集受入れを議決して同日夜から希望退職募集に関する具体的協議が開始された。

4 社組との団交

会社は、この間、社組とも三役交渉、団交を重ねてきていたが、社組としては「会社の経営努力に不満はあっても、経営危機の実情は十分理解できる。しかし、労組が絶対反対というのに社組だけ単独に希望退職に応ずるわけにはいかない。」との態度を示していた。しかしながら交渉の進展につれて、転籍者募集については受入れの意向を示し、「個別の協議に応ずる」との態度を示すなど労組とは異なった状況となっていたが、労組の希望退職受入れについては、労組がその後退職条件交渉を積極的に行わないなど、その真意が不明であるとして、最終的には「社組としては転籍を優先すべきと考えるので希望退職募集に同意できない。但し会社が実施するなら敢えてこれを妨害しない。」との意向を表明してきた。

5 希望退職の募集

(一) 希望退職募集にあたり、会社は申し出本人の会社都合退職金にその七割相当分を加算し、更に年齢に応じ二か月から九か月分の基準賃金見合額を加算するという会社としては精一杯の条件を提示したところ労組はこれについてなんら異議なく了承した。そして、募集手続の協議は四月二一日から二七日まで数回の団交と三役交渉により行われ、応募受付けは、四月二九日から五月八日まで(五月一日から五月五日までの間は連休で受け付けていない。)実施した。ところが、この間には合計七二名の応募があったにとどまった(労組員五〇名、社組員五名、管理職を含む非組合員一七名)。

右のように、希望退職者及び転籍者を募集した結果、希望退職者が七二名あっただけで、二三二名の目標人員に対してはその約三分の一程度が達成されたに過ぎない状況であったため、金融機関、取引先等に対する影響も大きかった上、三井金属からは、再建不可能と判断されて、支援を打ち切るので再建を断念するように通告された。

(二) しかし、会社としては、三井金属からの支援を打ち切られれば、それは即倒産することを意味したため、三井金属と折衝して、昭和五六年五月末までという期限の猶予をえて、右期限までに前述の基準該当者一五二名のうち希望退職募集によって退職した者を除き、残る約一二〇名について退職勧奨を実施することにより、人員問題を解決する、その他の約四〇名については、三井金属からの出向者の復帰、管理職、企画監督者に対する転籍、支店、営業所における退職勧奨等を追って実施することによって削減する、ということで了承を取り付けた。右のようにして、昭和五六年五月までに、労使間で問題になっている人員問題に決着をつけざるをえないことになった。

6 五月一四日の団交

(一) そこで会社は、五月一四日午前、社組に対し団交を申し入れ、経営がまさに倒産の事態に直面していることを説明し、「年齢および勤務成績等の退職基準による退職勧奨」を実施することに対する意向打診を行った。そして、団交後の事務折衝において、社組に対し前記人選基準を非公式に示した。

(二) 労組の対応

会社は労組に対し、同日午後三時から団交を開き、退職勧奨に対する意向打診を行うため会社経営の実情から具体的数字を示して説明し、早急に労組の意向を聞きたい事項があると話しはじめたところ、副委員長が突然会社発言をさえぎり、「冗談を言ってもらっては困る。労組としては希望退職について協力するだけ協力したのだから、後は会社が考えることだ。会社がどんな経営努力をするかについて質問したい。」と述べその余の会社側の説明を聞こうとしなかった。会社は、「この意向打診に対する労組の回答は来週早々でよいので、その間に労組の質問については何でも答える用意がある。会社の提案内容についてまず話を聞いてもらいたい。」旨再三にわたり申し入れたが労組はこれに応ぜず、押し問答が繰り返され、一度中断をはさんで午後八時頃に至り、労組は、「会社の提案を聞くかどうか検討したい。」として再度団交は中断された。

途中何の連絡もなく、翌一五日午前〇時五〇分頃になってやっと団交が再開されたが、冒頭労組から「社組に対し労組より先に団交をもったのはどういうわけだ。」との質問がなされたため、会社は、「会社としては一四日中に両組合に対する意向打診を行いたかったので、時間調整の結果そうなった。他意はない。」と釈明した。

これに対し労組は、会社提案を聞こうとせず「いずれにせよ心外であり、団交は進められない。」として一斉に退席してしまった。

7 労組の分裂

(一) 五月一六日朝、労組が突然分裂した。同日午前労組の前委員長栗原宏を委員長とする新組合従組を結成した旨の組合結成届が提出された。更に一八日午後には、従組と社組とが連合し、連合(栗原宏委員長)が結成され、組合員の過半数を確保した旨通告があり、同日の団交において、連合は「会社倒産を避けるため、再建計画を早急に達成せよ。」と強く要求してきた。これに対し、会社は再建計画の達成には人員計画の早期終了が必要である旨述べ、一四日社組に行ったと同じく、人選基準を示してその趣旨説明を行ったうえ、連合としての意見をとりまとめるよう申し入れた。その後同月二一日、連合は、会社再建のためには退職勧奨受入れもやむをえないと回答してきた。

(二) これに対して、労組は、退職勧奨を行うことを同月二一日には拒否したが、会社が、翌二二日、人選基準を解雇基準として、指名解雇を実施せざるをえないとの方針を示し、この事実が二三日付の大分合同新聞によって報道されたことにより会社が指名解雇に踏み切る方針であることを知ると、同月二五日の団体交渉において、退職勧奨の協議に応ずるとそれまでの拒否の態度を変え、退職勧奨基準のうち第四項を取り上げて、会社の主観的評価が入る、しかも抽象的、客観性を欠く基準で該当者を選抜するおそれがあると、これを基準とすることに反対した。これに対して、会社は、会社再建のためには従業員の質の確保は絶対に必要である、適用に当っては誰の目にも明らかな者を該当者とするので、十分客観性があると主張し、双方の主張が平行線になって、かなりの激論になった。

しかし、翌二六日に行われた団体交渉においては、労組は基準自体についてではなく、基準該当者を具体的に検討した結果に基づいて、基準該当者が労組の方に非常に多く、従組に比較して不利であるから反対であると態度を変え、会社はこれに対して、退職勧奨基準は人選基準として労組、従組の分裂以前に作成したものであるから、分裂の結果、一方の組合に該当者が多くなったからといって、それを理由に基準を変更するわけにはいかないと主張し、結局、交渉は決裂状態となった。

このため、会社は、同月二六日、労組及び連合の双方に対して、第三の道即ち指名解雇を実施せざるをえない旨を申入れた。

8 共闘とのトップ交渉

ところが翌二七日、共闘会議の山亀議長、斉藤副議長、佐藤事務局長らが相ついで会社を訪れ、会社提示の退職基準に基づいて退職勧奨に応ずるという方向で指名解雇撤回の話合いに応じてもらいたい旨申し入れがあり、同日午後三時頃から大須賀社長、土井総務部長と山亀議長、佐藤事務局長によるトップ会議が開かれた。席上会社は「指名解雇を避けるためには実効ある退職勧奨ができなければならない。労組は一貫して強く反対しており、表面的に同意しても事実上反対ということでは困る。」と述べたところ、共闘会議側は「一度同意したことには責任を持つ。組合員に応ずるなとは言わない。しかし、今回の退職勧奨で終りということにして欲しい。」と要望があった。これに対し、会社は、「それは退職勧奨の結果次第であり、約束できない。ただ、勧奨対象者以外にこの際辞めたいと申し出る者も予想される。結局は労組の対応次第であり、勧奨に同意した事実に則した行動をとってもらわなければ困るし、労従問題を持ち出し、従組を硬化させることのないよう配慮願いたい。」と述べた。

トップ会談の結論は

(1) 労組は退職基準に基づく退職勧奨に同意する。

(2) 会社は指名解雇を取り止める。

(3) 退職勧奨後の問題については双方触れない。

ということである。この結論を受けて、会社は、それぞれの組合に経過を説明、すでに示したとおりの退職基準に基づく退職勧奨を二七日夜勤者からを対象に二九日まで実施したい旨申し入れたところ、各組合の了解を得た。そこで会社は、労組との間に退職基準を添付した確認書を同日付で取り交したうえ、退職勧奨の実施に入った。

9 退職勧奨の実施

退職勧奨は前記人選基準に基づいて作成された該当者名簿により、職制(主として係長)から個別に事情を説明のうえ、退職を勧奨する方法により行われた。二八日午前中までは平静に退職勧奨が行われたが、同日午後になると労組の対応に変化がみられ、「対象者以外の者の退職申し出に対する取扱いを知らない職制が居る。」とか、「対象者が労組員ばかりだ。」との抗議が会社になされた。これに対し会社は、「対象者以外の者の退職申し出に対する取扱いについては各職制に周知徹底をはかる。勧奨基準について労組は合意している。」等説明に努めたが、同日午後七時頃労組の申入れにより開かれた団交の席上、労組は会社側の説明に耳を貸そうともせず、一方的に職制の勧奨方法、自発的退職者の取扱いなどについて激越な抗議を繰り返して怒号し、「今後一切協力をしない。」旨表明し、一方的に退席してしまった。

この団交後、退職勧奨に対する労組の対応は一変し、労組執行部は積極的に退職勧奨を妨害しはじめた。一例をあげれば、退職勧奨を行う係長につきまとって妨害したり、労組員が一旦提出した退職届を撤回するよう仕向けたりなどであり、二九日には、退職申出書を労組に提出するよう指導がなされた。

更に職場においては、労組員から従組員に対し、「従組員から先にやめよ。」と発言するなどが繰り返されたため、従組及び社組執行部も著しく硬化するに至り、連合内部から自発退職者が出ないような説得活動が展開された。

このような状況のもと、当初は退職勧奨と自発退職の双方で一二〇名前後の減員を見込んでいた会社の期待は裏切られ、二九日午後四時の締切りまでの退職者は、合計九二名(勧奨該当者八〇名、自発退職者一二名)に留まり、当初の目的を達成できないまま退職勧奨手続を打ち切った。

四 本件指名解雇

1 指名解雇の実施

以上のような事情から、会社は、人選基準該当者であって、退職勧奨に応じなかった者三七名のうちから(右自発退職者一二名のうちの七名については、補充必要とみなして)七名を除外することとして、第四項基準該当者のうちから軽重の序列の軽い者七名を除外し、残りの債権者らを含む三〇名を指名解雇したものである。

2 一五名の指名解雇撤回

なお、本件指名解雇に対し六月三日から再三にわたり共闘会議及び労組から、「指名解雇者のうち一五名については退職勧奨に応じたものとして扱って欲しい。」旨要請を受けた。会社としては、一旦指名解雇を通告したこともあり、また、期間内に退職勧奨に応じた退職者との兼ね合いもあり種々検討したのであるが、結局、共闘会議及び労組の要請を容れることとし、同月九日付をもって指名解雇を撤回し、退職勧奨条件に準じて取り扱うこととした。

3 債権者らの人選基準該当項目

債権者らの人選基準該当項目について述べれば次のとおりである。

(債権者氏名) (該当項目)

(1)衛藤政治 第四項第四号、第五項

(2)安部繁明 第二項

(3)加藤常雄 第四項第一号、第五項

(4)木崎昭夫 第四項第二項、第四号

(5)広瀬美恵子 第六項

(6)清水益男 第四項第三号、第四号

(7)宮本小百合 第六項

(8)石川秀 第四項第一号、第二号

(9)井美好順 第四項第一号

(10)渡辺敏和 第四項第一号

(11)小松敏範 第四項第三号、第四号

(12)井戸徹也 第一項

(13)井上長喜 第一項

(14)阿南清児 第四項第四号

五 結論

1 以上の通りであって、会社は、まず労組の希望するような条件をつけない形での希望退職募集、転籍募集を実施し、次いで労組との交渉により協議成立した退職勧奨基準に基づき退職勧奨を実施し、合わせて再度希望退職を募集し、最後に右退職勧奨対象者であって退職に応じなかった者のうちから一部を除いた者をやむなく指名解雇したものである。

この間、労組の態度は、希望退職については、会社が団体交渉が一向に進展しないためやむなく希望退職を労組の同意を得ずに実施すると申し入れると、始めて実質的な協議に応じて確認書が成立するに至り、又退職勧奨についても、共闘会議に説得されてようやく実質的交渉に応じて確認書の成立をみたという状況であり、しかも実際に退職勧奨が実施されると、対象者が労組員に片寄っている等の理由をあげて、一切協力しないとの態度をとったばかりではなく、これを積極的に妨害したものである。

2 会社の昭和五五年度末までの経営状況については既に述べた通りであるが、昭和五六年度に入って四月以降売上高が大幅に低下したばかりではなく、電線業界においては会社は倒産するとの情報が流れ、更に希望退職募集に対する応募者が少なかったところから、再建成らずと見られて、取引不安、信用不安を招き、取引条件が厳しくなるとともに、資金も全く枯渇して、三井金属からの資金援助が打ち切られれば、昭和五六年六月には、銀行取引停止処分を受けて、倒産することが確実な状態にあったものである。

3 以上の通りであるから、整理解雇の理由が存在し、会社は本件解雇に至るまでに労組と十分協議を行って来たものであり、協議の期間、協議の内容、その間における会社及び組合の態度、会社の経営状況等からすれば、会社が本件解雇を行ったのはやむをえなかったものといわなければならない。

六 残り三八名減員の実施

前記のとおり昭和五六年五月二九日の退職勧奨募集締切日までの退職者総数は一六四名で、六八名の減員が未達成であった。そのうち三〇名が人選基準に基づいて指名解雇されたが、残る三八名について、会社は管理職を含む非組合員層について、転籍、出向、退職等による減員を別に見込むことができるものと判断した。

その具体的実施状況は次のとおりである。

1 支店、営業所における退職勧奨応募者

(支店・営業所の退職勧奨応募者)

佐藤彪(昭和五六年六月二五日付管理職)

楠正成(〃七月二〇日付管理職)

惟住文夫(〃六月二五日付企画監督職 非組合員)

小野啓夫(〃六月二五日付企画監督職 非組合員)

萩尾京一(〃六月二五日付事務技術職 非組合員)

川原和幸(〃六月二五日付事務技術職 非組合員)

中島純子(〃六月二五日付事務技術職 非組合員)

津秋摩美(〃六月二五日付事務技術職 非組合員)

(希望退職扱いとした者)

島田留男(昭和五六年六月二一日付寮賄 非組合員)

島田元枝(〃六月二一日付寮賄 非組合員)

(使用人兼務常勤役員を非常勤役員とした者等)

竹下司(昭和五六年六月二七日付西電パイプ常勤役員から非常勤顧問へ)

鶴健一(〃六月二七日付福岡支店営業開発部長、株式会社共電社社長兼任から同専任へ)

(以上 一二名)

2 三井金属による開発部要員の労務費負担

大津健治(管理職)ほか、事務技術職七名分の労務費相当分

(以上 八名)

3 転籍及び出向者

(転籍者)

光行博美(昭和五六年七月一日付管理職 三井アルミナ製造株式会社へ)

岡田忠保(昭和五七年四月一日付管理職 三井金属へ)

児玉富士夫(昭和五六年九月一日付企画監督職 社組員 三井金属へ)

岡部直健(〃一〇月一日付企画管理職 非組合員三井金属へ)

(出向者)

佐藤征夫(昭和五六年八月一日付管理職 西電物産へ)

赤松数厚(〃八月六日付管理職 西電物産へ)

佐藤次郎(〃一〇月一日付管理職 大分ドラム株式会社へ)

土屋宇五郎(〃一〇月一日付企画監督職 非組合員株式会社共電社へ)

長井邦男(〃九月二一日付事務技術職 労組員 西電物産へ)

(出向先の経費負担になっている者)

若林金千(昭和五六年八月六日付企画監督職 社組員 西電物産へ)

小野暢正(〃八月六日付事務技術職 従組員 西電物産へ)

(常勤管理職を非常勤とした者)

住岡明一(昭和五七年四月一日付管理職 七月一日解嘱)

(以上 一二名)

4 任意退職者

小林満(昭和五六年九月三〇日付企画監督職 従組員)

江口哲雄(〃七月一八日付従組員)

植松達雄(〃七月二〇日付労組員)

小原正敏(〃八月三〇日付労組員)

佐藤光明(〃一〇月五日付労組員)

河村好文(〃一〇月二三日付労組員)

河野誠一(〃一二月二四日付労組員)

松本行男(昭和五七年一月三一日付労組員)

岩田玲子(〃四月二一日付労組員)

(以上 九名)

5 なお右記載減員は四一名となるが、

<1>任意退職者中岩田玲子は昭和五六年七月一五日付で労組専従から会社に復帰した者であり、<2>右記載外に出向中の伊坂信隆が昭和五六年八月一日付で復職したので、この二名を差引くと減員は三九名となる。

(別紙二)

抗弁に対する債権者らの主張

一 抗弁二の7、8(再建案)について

1 経常損失見込みの水増し

会社が再建案の目標として、解消されるべき損失発生額として特定した一二億七六〇〇万円は、本件指名解雇を合理化するために現実を無視して作文されたものに過ぎない。つまり、解雇の根拠とした再建案は、抗弁二の7の表の実績見込みを前提にして作られたものであるが、昭和五五年度有価証券報告書(疎乙第六〇号証)のとおり、昭和五五年度の売上高は二四八億七一〇〇万円であり、経常損失は一一億六七〇〇万円の赤字にすぎなかった(一〇万円以下の単位を四捨五入)。すなわち、右表によれば、売上高において二〇億七三〇〇万円も低く見積もられ、経常損失は一億〇九〇〇万円も水増しされているのである。一人当たりの人件費は年間三六〇万円として計算されているというのであるから、指名解雇された三〇名で節減される人件費一億〇八〇〇万円を一〇〇万円上回る損失発生額が水増しされていたことになる。したがって、三〇名の指名解雇による一億〇八〇〇万円の人件費の節減は必要としなかったものであり、債権者らは、作られた赤字により指名解雇されたものである。

会社は、同表の「実績見込み」は再建案を実施しなかった場合の昭和五六年度の業績見込みのことであると弁解するが、(1)西電パイプの緊急対策総括(疎甲第一九六号証)、(2)会社作成の昭和五八年度需要部門別販売予算(疎甲第一九九号証)、(3)再建計画案(疎乙第五号証)、(4)その他マスコミ等一般の用法等によっても、「実績見込み」とは昭和五五年度の実績見込みであることを意味することは明らかである。

2 経常損失見込みの根拠

一二億七六〇〇万円の経常損失見込みの根拠を説明、正当化するために会社から提出されたのが疎乙第五号証である。そして、会社は、一二億七六〇〇万円の根拠を、一ケ月当り一億三三〇〇万円の損失であったところ、昭和五六年一月以降、官公需関係の納入価格の改訂が行われたので、これにより収益率の向上を見込んで、一ケ月当り一億六〇〇万円(年間一二億七六〇〇万円)とした旨主張した。

ところが、会社の主張では「官公需価格アップを示した疎甲第一〇四号証(疎乙第二二号証の三)に基づいて計算すれば、疎甲第九五号証で明らかな通り、月間一六二八万円の売上増で収益は二七〇〇万円も向上するといった摩訶不思議なことが起きる」(疎甲第一一四号証)ことになってしまうのである。ところが、会社は、その矛盾点を説明するのでなく、土井陳述書(疎甲第五六号証)でこれまでの主張と証言を変えてしまったのである。

すなわち「この実施時期は、電々(日本電信電話公社)の場合は、五五年四月にさかのぼって実施されましたが、実際には五六年三月まで旧価格のままで、新旧の価格の差額は五六年三月に納金されました。また電力各社の場合は、おおむね五五年一〇月以降にさかのぼって実施されることになりましたが、実際には五五年一二月からほぼ新価格となり五五年一一月以前の新旧価格の差額は五六年二月ないし三月に納金される状況でありました。」(疎乙第五六号九頁)と価格改定の実施時期を遡らせるとともに、「欄の営業外損益(損失)が欄に比較して一二〇〇万円減少(収益)しているのは、五五年一一月に公定歩合の利下げがあり、これによる収益の改善を月当り約八〇〇万円と見込んだほか、欄は五五年一〇月から一二月という期の途中の実績でありますので、営業外収入など期末に整理される金額が含まれておらず、それだけ低目に出ておりますから、その点を月当り約四〇〇万円修正し、合計一二〇〇万円の収益改善を見込んで、欄に計上したことによるものであります。その他の項目については、販売直接費(荷造り、運送などの経費が主体)は、五五年下期落付き見込みにおいて二〇〇万円の減少が見込まれたので」(疎乙第五六号証一〇~一一頁)と、販売価格の改定以外に公定歩合の利下げや販売直接費の減少及び営業外収入で、一四〇〇万円の収益向上があったことにして、両者を併せると、丁度二七〇〇万円の収益が向上するという、数字合わせをしてきた。そして昭和五八年八月一五日付会社準備書面で主張を変えてしまったのである。

よって、一二億七六〇〇万円の経常損失見込みの根拠は崩壊しているのである。

3 不当に低く計算された官公需数量問題

会社は再建計画案の大きな問題点ということで「右のような低採算品かどうかの判定は、具体的には限界利益(疎乙第二一号証)に基づいて行いました。即ち、昭和五五年上期(四月ないし八月平均)の得意先、品種別、売上実績により限界利益率(MP率)を算出し、地域別の選別基準を設けて、一定の限界利益率以上の製品を選別し、選別された採算のよい製品中心の生産、販売に縮少することにしたもので(疎乙第二二号証の一、二)個々の製品についての検討、選別を行ったものであります。」(疎乙第一二号証一六頁)と、再建計画に計上されている数字は、昭和五五年四月~八月の実績により限界利益率の高いものを選別したということにあった。

ところが、限界利益率が高いという点で争いのない官公需売上げについて、マスタープランの販売計画(疎乙第二二号証の一)そのものが既に昭和五五年四月~八月の実績より不当に低く算出されている。

しかも、実績より低く算出されたマスタープランの販売計画の官公需売上げを「四三トンは多小過大であるから、販売量を八トン減少させて三五トンに修正しようよというのが、乙第二六号証の四で修正として出ております。したがってその修正をして三五トンとしたものを、これを再建案の販売計画にしているわけでございます。」(疎甲第一〇六号証)という具合に何らの根拠も示さずに大巾に減少させてしまったのである。利益率の高い官公需の売上げを不当に低く算出すれば、当然赤字が増大することは明らかである。

4 不当に低く計算された官公需単価問題

マスタープランの販売計画(疎乙第二二号証の一)の官公需価格(五五年四月~八月)を疎甲第一〇四号証によって改訂したのが、疎乙第五号証の計画価格である。

そこで電々公社に主として納入されている通信ケーブルの五五年上期の実績と、五五年四月~八月の実績から利益率の高いものを選別したという疎乙第二二号証の一の通信ケーブルの単価を比較すると、五五年上期の実績よりマスターのそれが四、五万円も不当に低く計算されている事実が明らかであり、前記3と同様、赤字が増大することになる。

5 疎乙第五号証について

(イ) 減価償却費問題

再建計画案(疎乙第五号証)の左側の現状欄には、五五年度の減価償却費の実績五億三四〇〇万円が計上されており、計画欄では五六年度の数字が計上されている。しかしその差額一六〇〇万円は、同じく「左側」真中の増益対策欄の合計八億四五〇〇万円に含まれていない。

しかし、右八億四五〇〇万円の内容である疎乙第五号証「右側」下段増益対策の項では第六項で五〇〇〇万円計上されている。

すなわち、会社は人件費を除く当時の製造加工費を(ア)管理可能費と(イ)管理不可能費に分け、その(ア)管理可能費の合計額を一八億六八〇〇万円と明記した。そして、当初「このうち管理可能費についての費目毎に節減金額を算出したところ、売上高の減一八・七パーセントにほぼ比例する一八・四パーセント三億四四〇〇万円の節減が可能と考えられた。」と明確に主張していた。しかし、その後人件費を除く製造加工費を管理可能費と管理不可能費に分け、このうち管理可能費についてのみ経費節減が可能であるとした右の表現は誤りであり、これを「これら人件費を除く当時の製造加工費について費目毎に節減金額を算出したところ、三億四四〇〇万円の節減が可能と考えられた。」というように主張を改めてしまった。ところが、その(ア)管理可能費の合計一八億六八〇〇万円の一八・四パーセントが丁度節減可能を考えた三億四四〇〇万円になるのである。つまり、節減金額には(イ)管理不可能費は一円も含まれていないのである。だから、疎乙第五号証の「左側」の真中の増益対策には、減価償却費減の一六〇〇万円が含まれていないことは明らかである。

このように説明に窮したとはいえ、基本的主張を結審間際になっていとも簡単に変更して、疎乙第五号証の左右の矛盾をごまかそうとする事は許されない。

(ロ) 営業外損益費問題

再建計画案(疎乙第五号証)の左側の営業外損益で八一〇〇万円金利負担が減少し、その八一〇〇万円を含め、「左側」増益対策欄の合計が、八億四五〇〇万円となっている。

そして、その八億四五〇〇万円の中味が、右側下段の増益対策の1乃至6の項目として記載されている。

しかし、事実申立書(疎甲第一一四号証七頁)で指摘したとおり、「右側」下段増益対策の1乃至6項のなかには営業外損益八一〇〇万円は含まれていない。この八一〇〇万円は合理化の如何にかかわらず、公定歩合の改定という政府の経済政策によって生じる金利減である。

茶谷陳述書(疎乙第六八号証)がいうところの「事務所統合には資金が必要ですが、これは借入金によって賄わなければなりませんから、借入金の増加による金利負担の増大することになりますが……」(五頁)のような経営アクションに伴う金利減の問題ではそもそもないのである。

二 抗弁六(残り三八名減員の実施)について

1 支店・営業所における退職勧奨応募者について

島田夫妻は、現実には一度も退職していないのに、先の希望退職の時の退職者にされているうえ、ここでも再び退職者とされ数字合わせのため利用されている。

会社は、本件整理解雇の対象には会社の役員は含まれていないと主張しているが、竹下司と鶴健一は役員であるから人員計画外の人物である。

その他の八名も昭和五六年六月二五日以降の退職者である。

2 三井金属による開発要員の労務負担者八名について

開発部要員中七名は、昭和五七年六月七日付で、残る大津健治も七月一日付でいずれも開発部を解かれているので、少なくとも七月一日段階で三井金属は右八名の労務費を負担しなくなった。ところが、会社は同年七月五日付準備書面で平然と三井金属が右八名の労務費を負担していると主張しているのである。

3 転籍及び出向者一二名について

この中には、水死した江口哲雄や人員整理と無関係な任意退職者九名も含まれているし、五月内決着どころか年があけた昭和五七年四月に退職した者も掲げられている。

4 要するに、会社の主張する三九名は数字合わせのためのものであり、五月内決着が必至であったとは到底いえないことを裏付けている。

(別紙三)

再抗弁(不当労働行為)

会社は、ひそかに栗原宏委員長と接触し、労組を分裂させて第二組合を結成させ、かくして強行された本件指名解雇は、第一組合員のみの排除を狙い、不当労働行為意図でなされた無効のものである。以下、具体的に述べる。

1 三井金属きっての労務対策のエキスパートといわれる土井建一郎が会社の総務部長に送り込まれた。

右人事を、当時の労組(分裂後の従組、連合)委員長栗原宏が、会社の管理職より先に知っており、栗原は、昭和五六年三月二日大分市所在のセントラルホテルで会社の戸村専務と会い、翌三日同市の西鉄グランドホテルで土井総務部長とも会うなど三月初め頃から会社側と接触を始めていた。

2 第二組合である従組は五月一六日に旗揚げしたが、その二日後には事務所が開設され電話も設置された。

右電話は、昭和五六年四月六日、近い将来誕生する第二組合のために会社の総務部長宅から会社構内に移転されていたものである。

3 既に五月五、六日には、組合分裂の準備が出来上っていたが、その拠点は会社の計数室であり、会社のコンピューター用紙の原紙を使って脱退届が作成され、分裂後の従組、連合のために右計数室の電話が公然と使用されていた。

4 組合内部には、分裂の要因など何一つ無かった。栗原は、組合の決議機関には自由に発言できない雰囲気があったとか、執行部が会社の厳しい状況を理解しようとはしなかったとかいうが、全く根拠のないものである。五月八日、栗原は診断書を用意し、体調がよくないので一月間入院する旨、大分県労評の山亀委員長、労組の石倉副委員長らに申し出た。診断書には入院の要ありとは書かれていなかったが本人がいうことだからと、それを全面的に信用し、栗原の健康を案じ、入院に同意した。

栗原の入院中は、石倉委員長代行らが、団交の報告や相談などに栗原の入院先まで行っていた。栗原の第二組合旗揚げの断行は、労組の執行委員全員にとって全く寝耳に水であった。労組は昭和二八年に結成され、分裂直前の組合員数は五一六名、社組は末端職制によって昭和三〇年に結成され、当時の組合員数は五三名で社組は労組の一〇分の一の少数組合である。したがって会社は、両組合共通の団交事項については、必らず多数組合である労組と先ず団交をやってきた。

ところが、五月一四日の退職勧奨という重大事項の団交に限り、会社は先に社組と団交を終えていた。この事実を知った労組の石倉委員長代行らは激怒した。しかし、これは、栗原が入院し、栗原不在で、したがって栗原が責任を感じなくてもよい時に労組を怒らせ、労組の責任で交渉が決裂したことにし、それを旗揚げの口実にするために、土井総務部長が仕組んだワナであった。

組合分裂の朝、栗原は新聞記者に対し、「社組とは「連合」を作る。管理職六〇人と提携すれば本社工場の労組員二八一人をしのぐ三〇五人の過半数がとれる」と語った。社組のみならず、管理職六〇人をも自由に動かし得る人物が組合分裂に関与していたからこそ、栗原の右のような発言が可能になるのである。

5 会社は、第二組合の電話の五月分の基本料金の三分の一と、六月分の基本料金の経費援助をしている。

6 土井総務部長の下で働いていた宮本一彦は、第一次希望退職に応じて退職を申し出たところ、土井部長から極力止められ、「やめんでいいではないか、今いやなら労使紛争が片づくまでしばらく三井金属に出向していい」といわれた。また、塚本周二は第二次募集に際し、「基準外の者からも退職者が出ることを期待する。退職条件は同じ」との労使間の確認ができたと聞いたので、五月二八日上司に「今回の希望退職に応募したい」と申し出たところ、上司から「今回の希望退職は退職勧奨の基準に該当する者だけに行うもので、君のような基準外の者の希望退職を認めるとは聞いていない」と言われた。このように第一次、第二次での希望退職者募集期間中に、退職を希望した者を会社が押さえたという事実は、会社が労組員の狙い打ちを考えていたことを明白に物語っている。

7 第一次希望退職者募集中に、計数室にて脱退届が作成され、第二組合の旗揚げの口実を作るだけになっていた。

だから、会社は、その後は希望退職でなく第一組合員を狙える退職勧奨と指名解雇を強行した。

退職勧奨は、第二組合の方が組合員数は二名多かったのに、組合員数の少ない第一組合員が九三名、第二組合員は僅か一七名であった。そして、間髪を容れずに解雇理由もわからないままになされた本件指名解雇には、第二組合員は一名も含まれていなかった。

この差別を見て、第二組合が、第一組合員は差別されるとの確固不動の自信を持ったのは勿論である。「連合」ニュースは、投書の形で「現実的に世間では従組、労組のどちらに籍を置いているか、いたかでその扱いに差別があります」「何故旧労が世間から差別されるのか、よく考えてみればいかに旧労の存在そのものが西電再建の障害物になっているかが分ってくると思います」と報じている。

これは退職勧奨や指名解雇の差別性が狂気じみていたことの何よりの証拠である。

8 第二次希望退職者募集が締め切られた翌朝の大分合同新聞は、「西日本電線は退職勧奨による第二次希望退職募集を二十九日午後、締め切った。その結果、退職勧奨の対象者ではない“自発退職”十二人を含め、計九十二人が応募した。会社側はこの人数をどう見るか、また今後の対応について『いまは何も言えない』としている。」とも、「今後の対応策については、『うち(西電経営陣)だけではわからない』と述べ、指名解雇という“非常手段”に訴えるかどうかは、親会社の三井金属鉱業や、関係金融機関の判断がカギを握っていることを示唆した。」とも報じている。

指名解雇があるか否かも含めて、すべては今後の問題と、二九日にはマスコミにも語っていたのである。いかに不当労働行為に目がくらんでいても、仮にも指名解雇をする場合には、二つの組合があるのだから、客観的基準について第一組合とも当然に協議するものと第一組合は信じていた。それがそれまでの団交の流れでもあった。ところが、第二次希望退職募集後、まさに間髪を容れず翌三〇日に、こともあろうに下関郵便局から指名解雇通知書が発送されたのである。

退職勧奨基準は、組合との協議を拒否して一方的に作られたものである。そして、会社が一方的に作ったものは、あくまでも退職勧奨基準であって、整理解雇基準ではない。整理解雇基準については労使で全く協議したことはない。人員整理をめぐる経過からして、五月三〇日には未だ整理解雇をするか否か組合には不明であったし、マスコミにも会社自ら不明と語っていた段階であった。そのような五月三〇日に、会社は全く抜き打ち的に、指名解雇通知書を発送したのである。

このだまし打ち的な指名解雇が第一組合の弱小、無力化を狙ったものであることは明らかである。

9 結語

以上労務のベテラン土井総務部長が、親会社から送り込まれ、昭和五六年三月初め頃から、栗原委員長と会社との密なる接触が始まり、早くも四月の六日には第二組合用の予備線として電話も準備され、五月五日・六日には計数室のコンピューター用紙の原紙に首謀者たちの脱退者が書き込まれ、いつでも旗揚げできる状態になったが、組合内部には何らの分裂要因もなく、従って旗揚げの口実がないために、脚本どおり栗原が病院に逃げ込み、土井総務部長が、五月一四日に少数組合の社組と先に団交して、石倉委員長代行らの執行部を怒らせて交渉を決裂させ、それを合図に第二組合の旗揚げをやってのけさせたこと、栗原が旗揚げするまで、石倉委員長代行以下の執行部や一般組合員には、組合分裂のことなど全く寝耳に水であったが、栗原は密かに社組とは連合を組むこと、必要に応じては六〇名の管理職と提携する、とマスコミに断言できるほどに、水面下で万全の準備をたてていたこと、第二組合が旗揚げすると会社は準備していた予備線を、組織闘争に遅れをとらないように、電話局をも通さずに緊急に第二組合事務所に設置してやり、さらに経費援助、便宜供与もやって第二組合を助け、退職勧奨なしの希望退職募集は極力嫌って一回で止め、第一組合との協議を拒否して作った退職勧奨基準によると称して、第一組合員中心の退職勧奨で第一組合を弱体化させるや否や、間髪を容れずにだまし打ち的に第二組合員を一人も含まない指名解雇をやってのけ、第一組合の弱小、無力化に追い打ちをかけたことなどが全く明らかになった。本件指名解雇は、かくして組合を分裂させ、第一組合を弱小、無力化させるためになした典型的な不当労働行為意図による解雇であることが明白である。不当労働行為事件として救済されるべきである。